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「私はバカだから…。」

※ページ下部に二女の直筆日記を掲載しています。

「私はバカだから…。」

 

これは、現在小4の二女(以下、『K』)と昨年なにげなく会話していたの中で、彼女がボソッ発した言葉。僕は、ゾクッ(ヤバイ!)と一瞬で全身凍りついた。

 

 

僕「Kはバカじゃない!なんでそう思うんだ!?」

 

K「…。だって勉強できんし、N(長女)がいつもバカだバカだって言うもん。」

 

僕「本当にそう思っとんか!?」

 

K「うん。バカだと思う…。」

 

僕(ひぇ〜。ゾクゾク倍増…)
「あのね、バカなやつが、Kみたいな絵や工作の作品をつくれるか!?それで周囲の大人たちを毎回驚かせることができるか!?頭や心が良くないとそんなことはできないんだぞ!」

 

僕「自分で自分をバカだと信じたら本当にバカになるぞ!自分の作ってきた作品を思い出してみろ!」

(あ〜だ、こ〜だ、中略)

僕「これって、すごくないか!?」

 

K「すごいと思う!」

 

僕「だろ!他の誰にもマネできんと思わんか!?」

 

K「できん!」

 

僕「じゃあ、『Kは頭が良い!』って言え!」

 

K「Kは頭が良い…。」

 

僕「声が小さい!!」

 

K「Kは頭が良い!」

 

僕「本当か?Kはバカなんじゃないのか?」

 

K「Kは頭が良いんだよ!!バカにあんなすごい作品が作れるか!」

 

僕(うわ〜、180度変わっちゃったよ〜。違う意味でヤバイ。)

 

 

そこから、二女はふつうに勉強ができるようになった笑。難しい問題にぶち当たった際に、できない理由を「私は頭が悪いから」というものに当てはめてきた回路が無くなったのだと思う。

 

「私は頭が良いからできるはず。」「どうやったら解けるのだろう。」という回路に切り替わったのだろう。

 

勉強に対する姿勢も発する言葉も前向きになった。言霊は強烈でそこから生じるコミュニケーションで、上昇キャッチボールと下降キャッチボールで、自己暗示は既成事実として細胞レベルで植え付けられる。良いものも悪いものもそれを長年蓄積していく。

 

人間は、同じ環境で同じものを見てても、その人の受け取り方しだいでその景色はバラ色にも灰色にも変わる。同じ状況で、同じ体験をしていても楽園にも地獄にも変わる。卵が先か?鶏が先か?みたいな感じで、バラ色&楽園モードで受け取ったら、うまくいき始め、結果楽しくなり、成功体験で好奇心が上がるというサイクルに突入できることは事実。

 

小さいときや若いときほど、思い込みの力は強烈で、そのまま大人になると取り返しがつかなくなるので、冒頭の「私はバカだから…。」に恐怖を感じた。比較的早めに気づき、ひとまず基礎修正できた(?)かと思う。

 

 

 

そして先日、二人で寝たときの会話。

 

K「大きくなったら、絵や工作の仕事をしたい。どうしたらいい?」

 

僕「今のまま、好奇心をもって、続けていけばいいんじゃない?」

 

K「絵だけをやりたいんよね。」

 

僕「絵だけでいきたいんだったら、総合力が要るよ。」
(あ〜だ、こ〜だ、中略)

 

僕「あと、環境は大事。」
(あ〜だ、こ〜だ、中略)

 

僕「だから結論、勉強もセットなんよ。」

 

K「へぇ〜。わかった!」

 

 

その数日後、長女からこっそりと二女のノートを渡された。長女はがんばり屋でプレゼン上手なので、今まで何度も感動させられてきたが、あのぐうたらな二女がこんなことを書くなんて、と初めてウルッときてしまった。(中盤、少しイタイところもあるが。)

 

人生はデザイン
宿題でもなんでもなく、急に書き出したくなったんだとか。なんとか説得して写真を撮らせてもらった。

11 / 02

課題と1UP!

学生でも、社会人でも、人生においても、『課題』というものは永遠に降ってくる。

 

前向きに取り組みクリアすれば、「お、もっとできそうだね」と、より有意義な課題が天から降ってくる。クリアする度になにかしらの能力が備わり、次レベルの権限が付与され、恩恵もおまけとして付いてくる。

 

ただ、たとえ課題クリアしても、姿勢が後向きであれば、「まぁ、できたね。でも、もう一回やっておこうか」と、姿勢を変えない限り永遠に同レベルの課題が降ってくる。手慣れてくるけど徐々にモチベーションが落ちていく。

 

そもそも課題に向き合うことすらしなければ、「君には難しいかったのかもね。」と、より低い意義の課題にまとわりつかれ、そのうち虚無感に飲み込まれる。

 

 

『課題』という言葉は不思議なもので、クリアして行けば行くほどポジティブな存在になり、逃げれば逃げるほどネガティブな存在になる。

 

ゲーム感覚で、1UP!みたいな感じで気楽にやっていれば、いつの間にか『課題』はポジティブな存在となり、人生の良きスパイスになってくれる。

 

重要なのは、課題自体が評価されるのではなく、取り組む姿勢、達成までの過程、その先に見える伸び代が評価の基準であり価値があるということ。そして、自分にとって重要な人たち(未だ見ぬ人含む)はずっとそれらを影から見守っていてくれており、ある時ふと手を差し伸べてくれる。

 

それが、課題と評価。

 

 

走行中(助手席)、橋の上から。スマホで手ブレブレだけどなんかイイ。※写真と本文は一切関係ありません。

 

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大学授業(2・3・4年生)

今年から大学の授業を担当。前期は4年生の卒研だけだったので、なんとか大丈夫だったけど、後期からは2・3年生も始まり本格的な授業。

 

どうやっても週2日は大学に行かないといけない状況。現場としては、頼もしいスタッフたちと、いつも支えてくれているエキスパートなパートナーさん達がいるので安心なのだが、もう少し手が欲しいなぁ・・・。(ちゃんと矢面意識のある人に限るけど。)

 

 

話を戻して。

 

それぞれの学年で各課題を実施していくのだが、僕の立ち位置としては、『現場のことを教える』ということなので、できれば手前から構築の課題制作をしてお終いにはしたくない。

 

フリーランスからの営業や、求人応募などで送られてくるポートフォリオや作品が評価しにくいのは、課題制作感があり、目的が見えず、その先で誰も何も動いていない無音な感じがあるから。提出する方も、とくに意図も狙いも無いため「これ作りました・・・。」で終わり、というものが多い。

 

僕としては、そこがすごく重要で、且つここが理解できていない人が多過ぎるということを問題視している。なので、教えるとなると小手先のテクニックではなく、目的構築とそこに対しての意図と狙いをどう構築するか。

 

やはり、目的をしっかり定め、全体への恩恵(自分自身含め)も盛り込み、ひとつひとつを『課題』ではなく『活動』として取り組んでもらいたい。その活動を可視化するための手段としてWEBやデザインがあるというだけ。

 

活動レベルで作られた課題は、ストーリー満載でプレゼン要素はすでにその中に詰まっているはずなので必ず就職時に役に立つし、20代前半でそこが身についていれば、幸先が良いかなと思っている。

 

学年が上がるにつれ、自分たちで考えて、自分たちで作りあげるというスタンスになるため、個人の意欲に任せるしかない。学生たちはどう思っているか分からないけど、こちらから見ると、20代前半は人生においてもっとも輝かしい時期のひとつだと思うので、いろいろ遠慮せずに踏み込んで欲しいな。

 

追伸:
個人的に広島のデザイン教育機関に充実して欲しいものとして、学習と現場がかけ離れすぎているので、現場ファーストの授業ができるデザイン教育機関があれば良いなと思う。広島でも看護系では実在しており、エスカレーター的に現場に適応できる能力がついている感じがある。学生時代はかなりしんどいと思うが、就職率も高いだろうし、本人も就職後に『思っていたのと違うから、僕もう辞めます症候群』にかかることも減るかなと思ったりしています。